杉並区議会議員(無所属) 堀部やすし最前線2000 8月A No.62

●学校選択の自由化を考える・その2 


 
学校選択制を導入すべき これだけの理由

 
  今回は、その2。その1のつづきになります。
(その1) 学校選択の自由化を考える・その1
学校選択の自由化に保護者の75%が賛成 まずは公立小中学校の情報公開を


  前回に引き続き、区立小中学校の学校選択の自由化を話題にします。今回は、なぜ学校選択を自由化する必要があるのか、という視点から話を進めましょう。テーマは次の5つです。

@ 学校選択制は、本来の教育を取り戻し、学校の活性化につながる
A 親や子どもに、ふさわしい教育環境を選ぶチャンスを与えるべき
B 教育の世界にはびこる「悪平等」は、子どものためになっていない
C 学校選択制を導入することで、地域と学校の関係を一から作り直す改革が始まる
D 自由のないところに責任感覚は育たない


 まず、以下の保護者アンケートの結果をみてください(先週の週間報告で取り上げたアンケートと同じもの。アンケートの詳細は、8月第1週を参照ください。なお、以下は行政が発表した資料に基づいて、堀部やすしが編集したものです)。


いじめや学級崩壊がない学校
(回答者の78%が選択)
基礎学力が身に付く学校
(回答者の58%が選択)
子どもの個性を生かした教育がなされる学校
(回答者の53%が選択)
学校の情報が広く伝わってくる学校
(回答者の27%が選択)
画一的でなく、独自性や特色がある学校
(回答者の23%が選択)
地域の人々との連携・協力がある学校
(回答者の21%が選択)
施設・設備が充実している学校
(回答者の14%が選択)
保護者の意見が充分に反映される学校
(回答者の9%が選択)
部活動が充実している学校
(回答者の8%が選択)
その他(回答者の3%が選択)


  厳しい財政状況の中で、なかなか新しい施策を行うことは難しくなっています。しかし、学校選択の自由化は、区市町村レベルでも改革が可能なことであり、さして多くの費用がかからない反面、これによって得られる効果は非常に大きいものがあると考えます。もちろん、新しい施策を導入するわけですから、混乱や弊害も発生することでしょう。ただ、現状のような閉塞された状況に比べれば、はるかにマシになるはずです。


 @学校選択制は、本来の教育を取り戻し、学校の活性化につながる


 杉並では、歩いて通うことのできる距離に、複数の小学校が存在しています。学校選択が自由になれば、多くの保護者や子どもは、よりよい教育を求め、よく考えた上で、学校を選ぶようになるはずです。また、これによって各学校も、これまで以上に自主性を発揮し、よりよい教育を行う必要性を認識するはずです。

 これまでの区立の小中学校は、ある意味で学区制によって学校側が守られてきたといえます。ある一定の年齢になったから、深く意識することもなく自動的に近くの学校に行く。問題教師にあたっても、なかなか学校やクラスを変更することもできない・・・学校は子どもを評価することはあっても、学校の教育方針や教育内容について評価される機会は、ほとんどありませんでした。

 なにしろ、努力せずとも毎年ある程度の人数の新入生が入学してくることが、自動的に決まっているのですから、区立の学校では、ある意味「のんびり」としていられる部分があったことは否定できません(怒らないでください。他との比較の問題です)。しかし、一般に、環境が安定してしまうと、ときにマンネリに陥ったり、惰性で仕事をするようになるものです。人間は、適度の緊張感をもつことで、向上心を維持することができるのではないでしょうか。

 しかし、学校選択が自由になれば、そう「のんびり」とはしていられなくなります。適切な教育を行い、また教育方針や内容について、きちんと公開し、また説明もできないような学校に子どもは集まらなくなることでしょう。いじめを放置するような学校や、教え方の悪い教師のいる学校には子どもが集まらなくなることでしょう。少子化の時代ですから、そのままでは学校を存続させることはできなくなってしまうことでしょう。

 実際には、とくに小学生の場合、通学の利便・安全を考えて、家からいちばん近い学校を選ぶ場合が多いことでしょう。しかし、その場合でも、教育内容が悪い場合、子どもはどんどん転校してしまうはずです。

 こうして通学を希望する児童・生徒数は、ひとつのメルクマール(指標)となる以上、学校選択制によって、区立学校も、今まで以上に真剣に教育を行わないといけなくなるのです。こうして、よい意味での競争原理が働くようになれば、真に利用者(子ども・保護者・地域の住民)の立場に立った学校運営を進めていく第一歩になると考えます。


 A親や子どもに、ふさわしい教育環境を選ぶチャンスを与えるべき


 ただ、自由化によって、受験競争の加熱や学校の序列化を招くといった意見や、地域社会の崩壊が進むのではないかといった意見を持つ方の中には、自由化に反対する方がいます。しかし、どちらも、発想の転換を行う必要があると考えます。

 まず、学校は、未来を担う子どもたちのためにあるものです。多くの先生方は熱心に教育されていると思いますが、報道されているように、一部には激しい体罰やいじめに加担するような問題教師が存在していることも事実です。現在の学校では、たまたま問題のある教師に担当されてしまった子どもは、
ひたすら我慢するか、不登校になってしまうしかないのです。また、いじめが発生しても、いじめの事実を懇切丁寧に申告し、学校側に納得してもらってからでなければ転校することもできません。そうこうしているうちに、問題が発覚するころには、すでに手遅れになっていたり、子どもの成長に大きなマイナスの影響を与えている場合もあるわけです。

 その地位は落ちたと言われるものの、小中学校における教師は、相変わらず絶対的な権力者であり、悩みをもつ子どもは、一般にそれを受け入れるだけの立場にあるものです(あくまで一般論ですが)。しかし、学校が選択できるようになれば、教師との関係がうまくいかなかったり、教育内容に不満があったり、いじめに遭ったりしたときも、
周囲に引け目を感じることなく、堂々と転校することができるようになります。自らの問題を自分で主体的に解決する機会を提供することができるのです。

 最近、各地でスクール・カウンセラーの導入が進んでいますが、それだけで、さまざまな問題が解決するわけではありません。それよりも、選択の自由を与え、自ら学び・思い・律するチャンスを与えることの方が、はるかに重要だと考えます。人間は、環境が変わるだけで、性格まで変わる場合がありますが、
親や子どもの側にも、ふさわしい教育環境を選ぶチャンスを与えるべきです。


 B教育の世界にはびこる「悪平等」は、子どものためになっていない


 学校選択制を導入することによって、学校の序列化や受験競争の過熱化が起こるという批判があります。たしかに、選抜のために学力試験を課すようなことにでもなれば、過熱化するでしょうから、定員を超過した場合には、自宅からの距離を加味した上で、クジによる厳正な抽選を行い、学校側は学力による選抜を行うべきではないでしょう。

 しかし、学校選択制が導入され、年を経れば、学力的な偏在が発生する可能性は否定できません。というのも、保護者や子どもの側で、学力差による学校選択を指向する方は少なくないだろうからです。

 ただ、個人の思想・信条は自由であって、それを咎めることはできません。しかも、もともと能力に応じて教育を受ける権利は、憲法に保障されていることです(26条)。親や子どもが、学力レベルを理由に学校選択をしたいというのなら、それは尊重されて然るべきだと考えます。学校側も、在校生の習熟度や平均成績、実際の授業のカリキュラムや進捗状況等々を学校選択の参考資料として、きちんと公開するべきでしょう。

 それは学校の序列化につながるからダメだと言う人もいます。なかには運動会の徒競走で、全員同時にゴールインさせるのが平等だなどと詭弁を言う人もいます。しかし、人間は、一人ひとり、みな異なり、能力にも違いがあるものです。今のように習熟度の異なる子が一緒に勉強していることのほうが不幸だというのも、事実なのです。それぞれ能力や習熟度にあわせた教育をすることが、いちばん子どものためになるのであって、現在の教育の世界にはびこる「悪平等」は、決して子どものためになっていないと考えます。

 こうした当たり前の現実を踏まえ、私立の学校や学習塾では、習熟度にあわせた授業を行っています。多くの親は、公立の学校が果たしていない役割を私学や学習塾に求め、そこに通わせているのです。文部省をはじめとする行政がこの現実を踏まえず、これをいつまでも放置していることのほうが問題です。

 今の学校では、勉強のできる子は、簡単すぎてつまらなくなる反面、勉強のできない子も、まるで授業が理解できなくて、つまらなくなってしまう・・・というような具合になっています。だいたい個人の学力や習熟度を無視した授業をされても、楽しいわけがないのです。

 本来、相互に成長の度合いも性格も異なる人間が、みな同じカリキュラムで勉強させられるというのは、実に酷なことです。授業がわからないのに、どんどん先に進んでしまい、勉強が嫌になった経験は誰しもあるのではないでしょうか。できるかぎり各自の習熟度に合わせた授業を受けるのが、子どもにとって、いちばん幸せなはずなのです。

※この意味で、私は同一年齢・同一学年による教育制度は廃止すべきと考えています。徳育や学校行事などを除き、義務教育レベルでも習熟度に合わせた適正な進級や落第を図るべきだと考えていますが、残念ながら、これは区レベルでは改革できず、国政レベルの話題になりますので、稿を譲りたいと思います。


 現在、さまざまな方法で少人数教育を模索する動きが出ています。地方分権によって、多少なりとも区の裁量が拡大してきたため、柔軟な対応ができる部分も増えましたが、残念ながら、現実には財政難もあって、なかなか理想どおりにはいかないのが現実でもあります。

 しかし、学校選択の自由化は、区市町村レベルでも改革が可能なことで、さして多くの費用がかかる改革でもありません。これによって得られるものは非常に大きいものがあると思います。そのようななかで、かりに学校間で学力差が表面化し、習熟度に合わせた学校選択が行われるようになったとしても、それを一方的に悪いとだけ決めつけるのは、おかしいことです。もちろん、弊害も出てくることでしょう。しかし、現状と比べれば、はるかにマシなはずです。 


 C学校選択制を導入することで、地域と学校の関係を一から作り直す改革が始まる

  学校選択制が導入されると、学校と地域社会とのつながりが希薄になり、地域社会が崩壊するなどという指摘をされる方もいます。しかし、地域社会を維持するという目的で、これだけ弊害の多い学区制を無理やり維持するのには、賛成できません。

 今年度より学校選択制をスタートさせた品川区の若月秀夫教育長は、こうした批判に対し、「地域と学校の関係は既に壊れている。それを一から作り直す改革だ」と述べています(日経8/7朝刊)。都市の現実を考えれば、妥当な意見ではないかと思っています。

 品川区では、学校選択制に対応するために地域の住民が集まり、地域全体で学校をバックアップする動きが始まっているようです。むしろ選択制を導入することで、住民と学校の対話の機会が増えているところもあるようです。その背景には「学校の子どもを減らしてはいけない」という地域の危機感があったようです。時代が変わったとはいっても、学校が地域のひとつのシンボルであることは間違いなく、学校選択制度を導入することで、「地域と学校の関係を一から作り直す改革」がはじまるという指摘は、あながち的外れではないように思います。

 実際には、自由化には賛成していても、小中学生をあまり遠くの学校に通わせたくないと考える保護者の方も多いようです。すでに選択制を実施している品川区でも、多くの子どもは近隣の学校に通っていますが、近くの学校というのは、それだけで有利なものです。

 
 Dある程度、自由のないところには、責任感覚は育たない

 自由化のもつ意味は、これまでの画一的な教育のあり方を改め、各学校の自主性を高めるとともに、各学校が相互に競い合うなかで個性的な教育ができるようにするところにあります。また、学校を自ら選択したことで、親や子どもに「その学校を選んだのだ」という自覚が出てくることも、非常に意義があると思います。

 「学校はある程度自由に選択できるが、自由に選んだ以上は、自分が選択したという責任もきちんと自覚すること」「自分で選んだ学校だからこそ、そこでのルールは守らなければならないこと」。自由選択となれば、多少なりとも、こうした自覚が出てくることでしょう。自由のないところに責任感覚は育ちにくいもの。これから何においても、より自己責任が重視される時代ですから、自由と責任は表裏一体のものであることを、この制度を通して体得して行くことができれば、これも立派な成果というものです。

 そもそも、自由主義社会においては、ある一定の「選択の自由」を保障することは基本であり、「教育共産主義」は、本来、早期に改めておくべきだったのです。すべての施策には光と影があるとは思いますが、もっと前向きに考え、自信を持って学校選択制を導入するべきだと考えています。


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