堀部安兵衛


 あえて政治の登竜門をくぐらずに議員をめざし、議員になった堀部やすし。
 生粋の無所属・政界のアウトローは、なぜ、政治の世界に・・・?
 堀部やすしを紹介します。                     (みゆき)

堀部やすし写真

1.おまえ正気なのか?
2.堀部の決心その舞台裏
3.私たちの未来は?
4.忠臣蔵の堀部安兵衛
5.無所属のスティツマンをめざす
6.名前の連呼をせず、ひたすら歩いた夏

 堀部やすし 杉並区議会議員(無所属)


 幼少に父親を亡くし、母子家庭に育つ。各種奨学金や公庫の融資などを使い、大学に進学。早大社学卒。その後、夜間大学院で政策科学論を専攻する一方、大前研一(UCLA教授.経営コンサルタント)の門下生となり、都議選に立候補したことから本格的に政治の世界に入った。早大大学院中退。

 当選前は、政党や圧力団体に所属しない自立した無所属候補を応援する活動に取り組む。その異色の活動は、数々の報道記事に取り上げられてきたが、ここでの活動が立候補の大きな動機となった。予備校講師などを経て、大前研一門下生グループを代表する形で自ら都議選に挑戦。この緒戦は苦杯をなめたが、その後、杉並区議会議員に当選した(当選1回)。

 いわゆる「選挙カー」は使わず、名前の連呼をしないこと、「堀部やすしは、有権者に媚びません」をモットーに活動。良識ある杉並区議会(本会議)では、露骨な発言時間制限はなく、おかげさまで議会でも1人会派で活動している。



おまえ正気なのか?

 ある日、堀部やすしは、数年来の友人に「オレ、政治をやることにした」と告げた。 堀部はまさか自分の人生が、こんなふうに展開していくとは思ってもみなかった。

 選挙ともなれば、仕事も辞めなくてはならないし、学業も中途半端になってしまう。その堀部が政治をやるという。友人は即座に「おまえ、正気なのか?」。厳しい一言だった。

 堀部は母子家庭育ちである。学校には働きながら通っていた。早稲田の学費は安いとは言えず、働かざるをえなかった。奨学金という名の借金もある。時間的にも、夜には大学院があり、政治活動に充分な時間を割くことができるとは思えない(堀部は、当時、夜間大学院の学生でもあった)。

 堀部は、1970年生まれ。富山県に生まれ育った。幼少に父を亡くし、母子家庭に育っている。経済的な面から、一時は進学をあきらめるも、幸いにして、各種奨学金や公庫の融資などを使って大学、さらに大学院に進学することができた。「機会の平等」を保障し、「公正」な社会を実現する政治の役割の重要性を身をもって感じてきた。



堀部の決心その舞台裏

 堀部は、もともと政治には関心がなかった。もちろん親戚縁者に政治家はいないし、政治家になることなど、考えたこともなかった。そもそも学究肌の堀部の関心は、「政策」にあって、泥臭い政治には興味がなかったのだ。

 堀部は自分のことを学究肌とは思っていないようだが、周囲の私たちからは、そうみえた(だいたい選挙で「名前の連呼はしない」などと言っていては、いつになっても無名のままだと思うのだが)。また、社会的にも、堀部は過去数年、予備校で中学浪人生や大学浪人生を受け持つなかで、学校不適応・不登校者のためのフリースクールを増やさなくてはならないことを痛感し、その立ち上げを真剣に考えていたくらいである。

 さて、そんな堀部がなぜ、大きな決意をするようになったのか?それは、友人に誘われた政策研究会がきっかけだった。それも、友人たっての頼みもあり、人手が足りないから渋々手伝ったということが出発点で、意識的なものではなかった。

 そこで堀部は、次の世代のなかから、政党や組織ではなく、生活者の意思を代弁することのできる人を探し、無政党・無所属で立候補してもらおう(応援しよう)という活動に偶然にも取り組んだのである。が、結局、いつのまにか副代表までやっているのだから、堀部は相当なお人好しなのかもしれない(当時取り上げられた新聞記事等は、「報道記事」のページをご覧ください)。


 このとき、堀部は、苦渋の末、立候補を決断した人たちが、「選挙」「政治」というだけで、周囲の人たち(とくに配偶者・親族)から全く理解を得ることができず、出馬を断念してしまうという事例に直面することになる。

 たとえば、それは‥‥妻が反対している、幼な子がいる、いまの収入・ポストを捨てるのは惜しい、親兄弟の商売に差し支える‥‥などなど、庶民感覚からして、わからないでもない理由だった。・・・そう、日本は、いまだに世襲貴族や名望家が支配する政治がつづいているのだ。これでは行政革命を起こすことなど永遠に不可能である。

 世襲の2世3世や地域の名士、政党職員や議員秘書、労組や宗教団体の関係者しか議員になることができない現実。改めてこの厚い壁をまざまざと見せつけられ、堀部はガク然としていた。


私たちの未来は?

 世紀末を迎えて、歴史は大きな岐路にさしかかっている。世代交代が進み、最近では「団塊の世代」が政界の中心に躍り出てきたものの、それでもなお、変化の予感は全く感じられない。

 1970年代生まれの「団塊ジュニア世代」にあたる堀部は、未来に大きな不安を感じるようになった。このままの状態では、おそらく「団塊ジュニア世代」には膨大な借金だけが残されることになる。いま、君臨している高齢の政治家たちが、自分たちの未来を守ってくれるのか?環境は?年金は?介護は? はたして、安心して子どもを産むことができるのか‥‥?

 年々、この国をめぐる状況は、悪くなっている。今や、日本は、先進国のなかでも最悪の財政赤字を抱えているが、このままでは政府機能は維持できないかもしれない‥‥

 実際にアメリカでは、1995年に財政赤字が原因で政府機能が一時停止したことがある。いまの日本の財政は、当時のアメリカの財政よりも悪い状態にあるのだ。しかも、日本はこれから超・高齢社会に突入する。福祉政策の重要性が高まっているが、現在のような借金まみれの財政状況では、将来、相応の予算を確保することができるかどうか、非常に不安なものがある。なにしろ現在、政府部門の借金は、500兆円(国民一人あたり500万円)をゆうに超えているのだ。※なお、本年度末には666兆円となる見込み。

 未来を守るためにも、いま、財政再建の道筋をつけなくてはならない。自らの未来は他力本願ではなく、自らの手で守っていく必要があるのではないだろうか‥‥



忠臣蔵の堀部安兵衛

 幸か不幸か、堀部には守るものがなかった。

 堀部は独り者だ。配偶者も子どももいない。肉親に迷惑がかかるということもない。カネも組織も地盤もないけれど、そのおかげで失うものだって何もなかった。自分のように恵まれた人間が行動しなくて、誰が行動するというのだろう?恐いもの無しの自分だからこそ、立候補できるんじゃないんだろうか・・・?

 堀部はこう逆転の発想をするようになった。都議選や区議選にあたって必要な供託金なら、貯金を切り崩せば、なんとか準備できる。外野で文句ばかり言っていないで、自分で行動すればいいんだ‥‥堀部はそんな想いを抱くようになっていった。

 とはいえ、そんな大それたことは、なかなか決断できるものではない。最終的に悩んでいた堀部は、自分の想いを手紙にして、友人に送ってみることにした。

 その手紙には、選挙に立候補しようと思っていること、しかも無謀にも政党の公認候補とはならない(無政党)で活動するということを記していた。堀部は自分の想いを理解してくれる人がいるかどうか不安だったが、ともかく何か言ってもらいたい気分で手紙を送った。



 「本来、政治は理想追求であり、志ですよね。そういう意味では堀部さんの考えは尊いですよ…現実的に進むのが必要というのは、堀部さん自身が、いちばん分かっていると思います。しかし、それを分かっていても、自分の信念に忠実であり 続けようとしている堀部さんは、まさしく忠臣蔵の彼ですね」


 ほどなく帰ってきた返事に、堀部は感謝した。そもそも堀部の名前「やすし」には、この堀部安兵衛のように、たとえ無謀であっても、己れの信ずるところに勇敢に立ち向かっていくように‥‥との願いがこめられていた。

 堀部は、こんな大切な願いを忘れかけていた自分を恥じた。そういえば、安兵衛伝説の地・高田馬場下にある早大に入学したときは、堀部も偶然以上の何か深い縁を感じていた。そうだ、自分の想いに恥じるところはない。堂々と立候補しよう、そう決意したのである。

(参考)堀部安兵衛とは?
 
 『忠臣蔵』は、お上(幕府)の不公正な裁きに、あえて盾突いた浪人たちが起こした事件を題材にしたもの(江戸時代の実話)。何度も映画やドラマになっているのでご存じの方も多いだろう。堀部安兵衛は、この忠臣蔵四十七士の陰のリーダーといわれた剣客である。

 堀部安兵衛は幼くして家名断絶し(中山家)、元服前から貧乏浪人を余儀なくされた。そんな境遇もあり、彼は青年期にひたすら文武に打ち込み、25歳の時たった一人で挑んだ「高田馬場の仇討ち」で天下にその名をとどろかせた。

 この勇敢な安兵衛を見込んだ浅野家の家臣堀部弥兵衛が、彼を婿養子として乞い、彼は偶然にも忠臣蔵四十七士の一人となっていく。安兵衛は、この時、俸禄を得た恩を終生忘れず、忠義の志士として活躍したのである(また、彼は優れた文筆家でもあり、当時の様子を詳しく書き記した「堀部武庸筆記」を残している)。


無所属のスティツマンをめざす

 堀部は、大前研一の政策学校の門下生であったこともあり、まず大前研一(UCLA教授・経営コンサルタント)に相談した。

 堀部には、わずかではあったが大学院での学資金として働いて貯めた貯金があった。学費を滞納し、これを政治活動に使うことや、無所属で活動する(既成政党の公認候補とはならない)ことを説明したところ、快く推薦人になってくださった。こうして、堀部の挑戦は始まった。

 「無党派」にこだわったのには、訳がある。日本には民主的な党運営をしている政党は存在しない。政党は利権団体のダミーにすぎず、最初は志高く立候補したとしても、所属議員は民主集中制(討議拘束・党議拘束)という名のもとで談合政治に取り込まれていく。そして、いつしか背後に利益団体の影がチラつくようになり、結局は自己保身のために堕落していく・・・というパターンが繰り返されている。

 堀部はそんな「政治屋」の失敗を繰り返さないためにも、「無党派」での立候補にこだわった。しかも、多くの人たちは、「政党」そのものにたいへんな不信感をもっている。たとえ無謀な挑戦と言われようと、堀部は信頼感のある真の政治家(ステイツマン)になりたい。そう思っていた。


名前の連呼をせず、ひたすら歩いた夏

 1997年6月。堀部やすしは、都議会議員選挙に立候補した(杉並区)。

 資産家でもなければ、地域の名士でもない堀部は、選挙事務所や豪華な選挙カー(街頭宣伝車)など、とても準備することができなかった。堀部にできることは、小さなハンドマイク片手に辻説法することだけ。

 それでも堀部は「名前の連呼はやらない」ことをモットーに、自転車にノボリを立て、ひたすら街を歩き政策集を配った。読売新聞がこれを「選挙カーもなく、もっぱら自転車に乗っての選挙戦」と好意的に取り上げてくれた。記録的な猛暑がつづき、都内では日射病で死亡者が出る毎日のことだった。

 投票率は35%(杉並区)。これは当日の気温よりも低い数字だった。あまりに暑いので、みな選挙どころではなかったのだろう。しかし、そんななかでも、「堀部やすし」と書かれていたものは、なんと4,297票もあったのだ。元職候補を破る大健闘である。

 堀部の「暑くて熱い夏」は、こうして終わった。堀部は口先だけの人間ではなかった。ひとりで立候補をすることを決め、『忠臣蔵』の堀部安兵衛のように、最後まで大きな権力に屈することなく戦った。落選こそしたが、史上最低の投票率のなかでも、大きな存在感があった。大げさかもしれないが、この「堀部やすし」は、ひょっとすると、本当に「堀部安兵衛」の再来なのかもしれないと思う。
 
 堀部は、この先も既成政党の公認候補になる気はさらさらないという。特定の組織や団体のための政治ではなく「無党派層の 無党派層による 無党派層のための政治」は、いまの政党では実現できないことなのだという。

 これからも、まだまだイバラの道は続きそうである。でも、私はそんな堀部だからこそ、これからも心からエールをおくっていきたいと思っている。そして、たくさんの人が、堀部とともに戦ってくれる日を待ち望んでいる。堀部が言うように、利権まみれになっているダメな政治家の影響を受けるのは、常に私たちなのだから。



 2年後、堀部やすしは、区議会議員に当選し、現在に至っています。
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